いぬのこころ

おとなもこどももどうぶつも。

貧困家庭・奨学金の問題。心の貧困さというはなし。

最近、貧困により進学したくてもできない子供が多いとか

貧困は貧困を生むとか

奨学金を借りなければ進学できないのは間違っているとか

 

そういう声をよく聞く。

 

www.excite.co.jp

 

この、諏訪原という青年も、記事によると

大学に行くなら多額の奨学金を借りる必要があった。大学を出ても食いっぱぐれないように、緻密に計算をしながら、人生設計しないと路頭に迷ってしまう。

と考えたとある。

 

結果として好きにさせてもらって、奨学金が1千万を超えた。

とも言っている。

 

最初の「緻密に計算しながら人生設計」という部分がいつのまにか

抜け落ちている。

 

お金持ちであれば、計算せず人生設計せず好きに生きてよいということではない。

 

お金があろうと、なかろうと、人生設計をして計算して生きていく。

そのことは必要である。

 

親が十分な学費が払える経済力がなければ、

自分で考え、親と相談し、どこかで道を模索して、

できること、できないことを精査して生きていくのが正しいのであって、

親が好きなだけお金をだしてくれないから、

今、奨学金を背負って大変です。

というのはあまりにも身勝手である。

 

極端な話をすれば

医者になりたいと子供が言うが、親はそれほどの学費を出す財力はない。

じゃああきらめるしかないか。

 

あきらめず親と相談し、バイトをし、奨学金を借りながら夢を実現するか。

医者は無理でも医療に携わる仕事につけるよう経済力と相談しながら生きるか。

 

それを選択することが人生の選択ではないのだろうか。

お金がない。医者になりたい。なれないのはお金がない親のせい。

裕福ではない家庭の子供は好きに学ばせてくれないのは国のせい。

 

なんでもかんでも国のせいだ。

 

そういわれて、えー。そうなのかなとグズグズと人気取りのために

がんばりもしない、人のせいにしかしない一部の人間のためにまで

お金をつかう政府も政府だ。

 

がんばっている人にはもちろん、それだけの支援をしてもらいたい。

 

けれど、がんばらないけど大学にはいきたい。

お金はないけど自分でどうするかあんまり考えてないよ。

だけど、国が何とかしてよ。

見たいな人に、そこまでするほど、この国は優しい(ぬるい)のか。

 

身の丈にあった

 

ということばがある。

国民みんなが裕福な国なんてあるわけもなく、

格差があることはあたりまえなのに、

格差があるのはおかしい。

とたいした努力もしないままに、

声高々と恥ずかしげもなく言える、その心が貧困なのではないか。

 

まず裕福にすべきは、その心である。